
直径1・3mの「漉(こ)し機」から、真っ白い蒸気が、もくもくと上がっています。
青源しもつけ工場。約1トンのコメが蒸し上がりました。
真剣な表情で機械を操るのは、製造課の水口武日児さん。水口さんは「職長」として青源の味噌造りを統括しています。日本酒づくりの現場でいう「杜氏」と同じ役割です。
この日は、米麹をつくるための「仕込み」が行われていました。
蒸し上がったコメの表面温度は100度超。この温度を放冷機を用いて32~35度に調節しなくてはなりません。
「コメの水分量や粒の大きさ、品種、産地、季節などによって水分の飛び方や冷め方が違う。機
械を使っていても、全自動ではなく、人の手が必要です」
米麹の出来を大きく左右するコメの温度管理。水口さんは入社17年のベテランですが、コメを製麹機に引き込む作業は、毎回緊張感に包まれるといいます。
◇ ◇ ◇
宇都宮大学農学部で学んだ水口さん。もともと醸造に関心があり、麹を造る仕事をしたいと青源に入りました。
宇都宮市三番町にあった前工場では、一気に3トンのコメを蒸していたので「プレッシャーが大きかった」と振り返ります。
入ったばかりのころは麹づくりも「心配」の連続でした。工場近くに住んでいた会長が換気扇から漏れた香りを気にかけ「なんか、匂うね。大丈夫?」とのぞきにくることもあったそう。不安で深夜の工場に様子を見に来ることも、一度や二度ではありませんでした。
「最初は自分の力でいい麹を造ってやろうと思っていたんですが、そんなのただの思い上がりで」。水口さんは、続けます。「自分がいくら頑張ったからって、菌が活躍できないと米麹は造れない。だから、どんどん謙虚になりました。菌にお伺いを立てて『こんな感じでどうでしょうか』と」
◇ ◇ ◇
2021年春、青源の味噌造りの現場は、しもつけ工場へと移りました。
前工場が閉鎖し、従業員が新工場に移る中、最後まで残ったのが、水口さんでした。
「移転後すぐに仕込めるわけではないので、麹と味噌のストックをできるだけ確保しようということになったんです。工場が取り壊されていく中、本当にぎりぎりのタイミングまで」
水口さんは、この時のことが忘れられません。
トラックの荷台に味噌のタンクを積んで、国道4号線を何度も往復しました。苦楽をともにした三番町工場。こみ上げるはずの切なさは、青源の味噌をつなぐ使命感へと変わり、水口さんを走らせました。
◇ ◇ ◇
「食べ飽きない味噌を造りたい」。これが、水口さんの目標です。
青源の味噌を、お客様に永くご愛顧いただけるように。麹造りにおけるデータの分析を重ね、さらなる品質の向上を目指しています。
「味噌は日本人のDNAに染み込んだ食べものですから」
言葉からは、青源の味噌の継承はもちろん、「発酵食品」という日本独自の食文化を守りたいという想いがにじみます。
最後に、水口さんは夢を教えてくれました。
「宇都宮城址公園で発酵食品が集まるフェスを開催したい。県内のさまざまな企業と一緒に盛り上がれたら最高だなって。味噌やお酒、チーズ、納豆…。考えただけで、わくわくしませんか?」
【取材後記】
終始穏やかな雰囲気でお話を聞かせてくれた水口さんは、昨年のクリスマス、「じいじ」になりました。おめでとうございます!日本の伝統的な食文化を支えるかっこ良いじいじの姿、ぜひお孫さんにも見ていただきたいですね。