
1945年(昭和20年)7月12日深夜。宇都宮市上空に115機におよぶ米軍爆撃機B29が次々に飛来し、大量の焼夷弾を投下しました。第二次世界大戦中に起きた宇都宮空襲です。
2時間以上続いた激しい空襲は、県都を火の海へと変えました。JR宇都宮駅東側の石町(三番町)にあった青源味噌も、この空襲で工場が全焼してしまっています。
「空襲の翌日、父が熊谷の飛行学校から戻ったのですが、JR宇都宮駅から目にしたのは、遠く松が峰教会までが見渡せるほどの一面の焼け野原だったそうです」(青木敬信社長)。この空襲で市街地の約50%が焼失し、620人以上が命を落としました。
青木社長がお聞きになったお話では、焼け落ちた工場の足元に小さな山のような塊がいくつも見つかったそうです。表面が真っ黒になった、その山を掘り削ると、姿を現したのは味噌でした。戦火に耐えて、味噌が焼け残っていたというのです。
空襲は一夜にして、人々の暮らしを焼き払いました。食糧が不足している中、焼け残った味噌を近隣の方々にお配りすると、大変重宝して使っていただけたそうです。
そして、焼け残った味噌は、青源の味噌造りの伝統をつなぐ希望にもなりました。『「使える部分を残しておいて、味噌を造る時の“種味噌”にした。それがあったから、うちの味噌としてつながった。お客さまに納得していただける味噌が造れるようになったのは、この種味噌のおかげだ」と。』(青木社長)
宇都宮空襲に詳しい宇都宮市文化都市推進課の職員の方によると、空襲後、塩の販売所では、辺り一面がすすで真っ黒い中、塩だけが真っ白いまま焼け残っていた話もあったそうです。このことから、味噌が焼け残ることができたのは、味噌の中に含まれる塩分のおかげではないか、とのことでした。
江戸時代の1625年(寛永2年)に創業した青源味噌の歴史は、宇都宮の歴史とともにありました。宇都宮安永の大火、戊辰の役、そして宇都宮空襲―。未曾有の事態に見舞われながらも先人たちは立ち上がり、あきらめることなく、400年の味噌造りの歴史を紡いできました。
今年で戦後79年。空襲で焼け野原となった宇都宮の街は今、高層マンションが立ち並び、宇都宮駅東側では次世代路面電車LRTが走るなど、目まぐるしい発展を遂げています。
遠くなりゆく空襲の記憶を、青源の味噌は静かに伝えています。
青源本店から徒歩3分の宇都宮城址公園内にある清明館で「うつのみやの戦災展」が8月31日まで行われています。
青源本店では、伝統の生味噌を使ったおにぎりやお味噌汁、生みそソフトクリームのほか、期間限定の冷たい甘酒のスムージーなども楽しめます。
ぜひ青源本店と清明館にお立ち寄りいただき、宇都宮の歴史に触れていただければと思います。